消極的自殺の記録

暁月分明 (tube_worm) が人生という消極的な自殺をしていくにあたっての記録です。

三本立て、読む価値のない雑記

お久しぶりです。tube_worm です。なんと9ヶ月以上も更新していなかったらしく、さすがに放置しすぎたなと思い筆を、もといキーボードを執った次第です。下書き欄を覗いてみると、投稿されなかった雑多な下書きがたくさん埋もれています。この9ヶ月間で考えたことの一部を、少しだけ継ぎ接ぎで無理矢理一つの記事としてしまおうと思います。まあこのブログを読んでいる人なんて数が知れているでしょうし、読みやすさなど気にせず、気の向くままに書き殴りました。

四畳半神話大系」を観て【ネタバレを含みますので未視聴の方は飛ばしてください。】

夜は短し歩けよ乙女」の映画化で話題になっていますね。先に断っておきますがこの映画は観ていないです。
四畳半神話大系」を観たのは5か月ほど前でしょうか。全体的な感想としては、細かい演出は面白かったのだけど、最終的なオチというか、結末がいまいちしっくりこなかったという感じです。
前半はずっと、大学生になって所謂「キャンパスライフ」を満喫しよう、というところから始まります。個人的に思うところも多く、非常に共感できる部分が大きい出だしとなりました。

しかし転機は9話に訪れます。悪友であった小津に「恋人がいる」ということに主人公である「私」が衝撃を受ける、というところあたりから物語の歯車と僕の持つ歯車が噛み合わずに狂ってきます。「四畳半神話大系」に限らず、大学生を描くにあたって、「恋人の存在」がある種ステータスとして、幸せの象徴として、「普通の大学生活」の象徴として描かれることが多いと(少なくとも僕は)感じるのですが、これに異常な違和感を覚えます。ただ単にステータスの一つとしてならまだ理解はできるのですが、ある種絶対的な、代替不可能なステータスとして「恋人の存在」が描かれてしまうと、僕の持つ価値観との相違が気になってしまいます。「四畳半神話大系」においては、その差異によって主人公である「私」との共感がとても薄れてしまいました。9話までは「私」の抱く感情にとても共感しており、また主人公を「私」としてあえて名前を与えないというレトリックの恩恵を大いに受け、僕個人の経験や価値観と擦り合わせ観ていたのですが、この9話の描写以降共感が酷く薄れてしまい、とても冷めた気持ちで観てしまいました。主人公たる「私」と視聴者たる僕との乖離が激しくなってしまい、意味不明なまま気付けば最終話が終わっていました。

NEW GAME!」を観てパニック障害になった話

タイトル通りの話です。「NEW GAME!」の一話を観たときに、オフィスで皆が働いているシーンでなぜか心拍数が以上に上がり冷や汗が噴き出てきて視聴継続が困難になった、それだけの話です。

「いや、これ時間通りに出勤する意味ってなに」「そもそも外部に活動時間を規定されるのが本当に無理な自分にとって意味がわからない」「なんで働くの?」「なんでこのキャラクターたちは僕の持つ数々の疑問を1つも抱かずに社会に飼いならされているの」といった疑問が一気に湧き出てきて普通にパニック障害になりました。原作を読んだときはこんなこと一切なかったので普通にビビりました。すぐにトイレに駆け込んで嘔吐し視聴を断念しました。いつか僕にもこのアニメを平常心で観られる時が来るのでしょうか。

アニメに全然関係ないとても短い話

さて、唐突ですが僕はタバコを嗜みます。よく「このご時世に」「体に悪い」「あそこにベンツが停まってますね」などと言われます。
僕にとってタバコは日常に打ち込む楔です。毎日決まった時刻に起床し、決まったルートで決まった場所に行き、決まったことを行い、決まった定型句で形だけの会話をする。二枚舌。皆さんはそんな平日という連続した虚無、休日という仮初の実存から離れた虚無を生きてはいませんか?(休日がないという方はご愁傷様です。)それは「生きて」「過ごして」「暮らして」はいても「活きて」はいないのではないですか?

もう月曜日です。今日のタバコは少し苦いです。